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文学が人を生かすということ 平田東正

2012.03.16 Fri
 どうも平田です。

 先日2011年度卒業生の「追い出し会」が開かれ、私も卒業となりました。この場をお借りして参加者のみなさんに、幹事として御礼を申し上げます。という訳で私のふみ通での記事も今回で最後となります。寂しいですね(寂しくなくてもこういうときは寂しいと言っておくものだよ諸君)。それでは最後に、「文学が人を生かすということ」について書きたいと思いますので、よろしくお願いします。

 単刀直入に申し上げて、私は昔この世に生きる意味はないのだと人生を諦観し自殺を考えたことがあります。そのような諦観に至るまでの過程には様々な要因が複雑に絡み合いましたが、その中でも大きな比重を占めていたのが小学2年のときに中耳炎で病院に入院したことでした。そこでは常に誰かの「死」というものを否応なく意識させられ、私はそのときから「人はいつか必ず死ぬものだ」という事実を真剣に考えさせられることになりました。それは結局において、「人はなぜ生きるのか」という問いを私に突きつけました。
 そして次第に私は「生きる必要がない」という風に考えるようになりました。その頃の私は、実に鬱屈としたくだらない毎日を過ごしました。言い換えると、私は自分自身に対しふざけた気分で接していました。まるで消化試合のように、意味のない日々だと感じていたからです。
 ただし死にたいとまでは思いませんでしたので、積極的にリストカットなどを試すといったことはしませんでした。私がやっていたのは、例えば、車が走る道路を横切ってひかれそうになったり、ガラスに突っ込んで頭から血を流したりと、自分を死ぬかもしれない状況に追い込むという程度でした。しかし私は幸運にも死にませんでした。

 そのような日々に転換が生じたのは、太宰治の『黄金風景』という小説を読んだ時でした(とても短いので読んでみてください→青空文庫 黄金風景 )。入院した際にあまりにも暇だったので小説を読む習慣がついていたのですが、この本を手に取ったのは、図書室にあった本を順番に読んでいたという偶然の産物でした。
 『黄金風景』を読み終わった瞬間、私は不覚にも泣きました。それは言葉では言い表せない程の実に清々しい気持ちでした。これは完璧だ、これ以上美しいものはない、と感じました。その瞬間、私はあらゆるものを肯定しました。人が生きることに意味がないとしても、だからどうだと言うのか、そんなことでいったい何が否定されたと言うのか、だってそれでもなお人は生きていけるじゃないか、というように、本当の意味での人生の無意味さを悟ることができたように思いました。「それでもなお私は生きる」。『黄金風景』は、私にとっての「光」でした。

 そのときの気持ちは、今の私にも脈々と受け継がれています。『黄金風景』を読んだという体験無しに、今の私は語ることはできません。だから私ははっきりと述べることができます。「文学は人を生かす、文学は人を救う」のだと。
 ですので、みなさんも、自分が書いた小説がもしかすると誰かを救っているんじゃないかと考えると、これからのスタンスが変わるかもしれません。もっとも、当然ながら太宰治が誰かを救いたいという想いで小説を書いていたとは思いません。しかしそれは意識するせざるに関わらず、読む人はそれをきっかけに勝手に自分を救うのでしょう。生きるということは、本当にたわいもないものですから。だとすれば、私の小説も、みなさんの小説も、それが誰かを救うという可能性がゼロでない限り、その可能性は永遠に真実であり続けます。

 さて私の記事は以上になりましたが、私は自分のブログを持っているので、これからもそちらに色々と書くことがあると思います。もし興味があればお越し下さい(右手で描いた暇つぶし)。
 それではさようなら。


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