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たがための大空なのか  上宮穂高

2011.05.08 Sun
たがための大空なのか蟻さえも見上げるという
砂利をかかえて(自作)



どうも。記事を書く習慣が久しくすっとんと抜けていた上宮です。蛇足ではありますが、当会副会長になってます。
んでこのルーズさ。記事を書かないのはヤバいな、とやって来ました。すみませんm(_ _)m

……さて。何を書こうか、何を書こうかと思案を巡らせてはみても取り立てて話題がめっからないのですが。そういう脇で件の津波の映像がテレビに映っていますので、震災のことについて書こうか……と思いましたが。やっぱりアレです。話題が大き過ぎました。正直な所。
きっと他にも感じている人もいるんじゃないかと密かに思っているのですが……今回の震災で思った所を文に起こしてみよう、と。そしてその対象の巨大さに圧倒され、言い表す適語が見付からない。そういうことってあるんじゃないかと。自分も正直な所そうなのですが、言葉が見付からないのは自分の勉強・修行不足だとして、事が大き過ぎてどこから語ればいいのか。何を取り上げればいいのか。そして果たして語り尽くせるものなのか。
悩みに悩んで、実際筆は半ば止まったままです。現実、三番目の問いに自分は否と答えます。何故なら震災はまだ終わっていないのですし、いつ終わるとも知れないのですから。

ここから、少し私事めいて来ますが、自分はこんな中において、果たしてどのように思う所を文字に起こせるか、それを考えた挙句短歌を中心に筆を進めています。
短歌は皆さんご存じの通り世界最小の文章表現の一であり、その伝統たるや大和の昔から脈々と受け継がれて来た、日本文学における大きな一潮流であります。
万葉の昔から、相聞歌、挽歌、雑歌等々様々な内容で数多の歌が作られて来て、現代においても多岐に渡る発展を見せる短歌は、子規の短歌革新運動、昭和の前衛短歌運動を経て、今や誰でもが心に浮かぶ何をも詰め込むことのできる、極めて自由な体系を手に入れていると言っても過言ではありません。自分も短歌を作る者として、そのことは重々知っているのですが、ここ最近ふと思うことがあります。
「三十一文字で一体どれほどのものを表現できるのか」。
三十一文字で表現できるものとは、限界があるのではないか。
その内容など高が知れているのではないか。
これは自分が上手く作歌できないストレスの現れなのかもしれませんし(汗)、ならば至極お見苦しいこととは思いますが、やはり短歌は三十一文字故その内容量には限度があり、言いたいことが言えるスペースも限られている、これが一つ問題として思い浮かぶのです。
更にその長大な歴史故、もう手垢が付くほど使い古された詩型なのでは、それでどんなことを詠んでももう過去に同じことを詠んだ誰かがいるのではないか。
そう思うと自分が何故短歌を詠んでいるのか、という所にまで疑問の歩が進むのです。
しかし、そう簡単に面白みが尽きないのが短歌という文学である、そう断言できます。短歌で詠めることには、少なくとも今は無限大であるのです。高が三十一文字の中で何を、という方もいるかもしれませんが、とりあえずこの歌をご覧下さい。

石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(万葉集、巻八)

これは、教科書で習った方もいるでしょう、かの天智天皇の皇子である志貴皇子の作です。
この歌は純粋に「春が来た」という感慨を歌い上げている、そういう歌です。「春」の変奏曲とも言えますが、何故そういう歌が現代まで伝えられる有名な作となったかと言うと、一つはその歌に込められている「世界」の大きさにもあると思うのです。
まず、歌の冒頭で目に飛び込んで来るのは「石ばしる垂水」。これはどういうことかと言えば、「岩の上を激しく当たりながら流れ落ちて行く滝、水流」という意味で、ここでまず豪快な渓流の姿が瞼に浮かびます。
「石ばしる」を「垂水」にかかる枕詞として意訳に含めない説明もなきにしもあらずですが、やはりそれでは魅力に欠けるというものでしょう。巨大な岩盤の様をまず、「石(いわ)」と先頭に持って来て、更にその上を一気に流れ落ちる激流を次に配することで、読者の脳裏にダイナミックな渓流の景色を立ち現わせるのです。多分どこか奥深い山の中なのでしょう。その中で作者は水の流れにスポットを当てたのです。
そして、次に来るのは「~の上のさ蕨の萌え出づる」、つまり、その激流のほとりに芽をふいた若い蕨を歌に込めているのです。ここで視点は一気にズームインし、水の冷たいしぶきを浴びながら萌え出した蕨に絵は絞られるのです。このアクロバティックな視点の動きの後、さて、話はどう落ち着くんだろう、と見てみると、「~春になりにけるかも」。
これを皆さんはどう捉えるでしょうか。蕨の萌芽、それこそが小さな春の息吹、春の始まりなのだ、という視点を絞ったままの見方もあるでしょう。
しかし、自分は今まで歌われて来た全てを指して「春だ」と言いたいんじゃないかと思うのです。
恐らくは、雪解けが始まったばかりで水かさが増し、冷たい水の流れが岩にぶつかりながら森の中を下って行く深山の渓流地、その中で、ごく微細ながらもようやく顔を出した早蕨という小さな命。いえ、それ以外にも、流れ落ちる水の轟き、それが響き渡る森閑とした森の風景(きっとまだ裸木が並ぶ、冬の名残をとどめた景色でしょう)、一方でかすかにその間を縫う鳥のさえずり、はたまた川とともに流れて行く風の潤み、そしてそれら全てを指して「春なのだなぁ」と感慨をこぼしている、作者の姿。
指摘すればきりがないのですが、このような微細な世界から一気に壮大な山の景色まで何でも詠むことができる、それが短歌という器だと思うのです。歌に詠まれていること以外のものをも読者に感じさせる、「余白」の技術。それを考えるにつけて、短歌には一体どれほどのものを詠むことができるんだろう、とその果てのなさを思い耽るのです。
で、今です。
こういう無限大の器たる「短歌」という表現法を手にし、自分は何を詠むか。
今回の震災は、確かに文章を以て捉え切るには余りあるものかもしれませんが、だからといって歯が立たないとするのは自分の思い込みなのかもしれません。例え、一首の短歌だけでは詠み切るに余りあるとしても、少しずつ、少しずつ、その断片でも詠んで行けば、それで積み重ねて行けば……と考えています。
元より。短歌で何を詠んで悪いということもなく、日常のどんな些細なことでも、何でも詠むことができるのです。そう、砂利を抱えて大空に思いを馳せる蟻のように――始めから「これは詠めない」ということはないでしょう。
そしてこれは、短歌に限ったことではなく、他のジャンルにも当てはまることと思うのです。

……何だかただでさえ自分の趣味と私情を織り交ぜたような内容からして駄目なのに、半ば講義のように感じる文章のグダグダっぷり……ここまで付いて来て下さってる方、いますでしょうか。軽く土下座でもさせて下さい。
……それはさておいても、今回は短歌の面白みの一片を自分なりに語ってみたつもりですがいかがでしたでしょうか。
まだ短歌については若輩物の自分ですが、これから精進して行きたい所存です、もし、読者の皆さんの中に(学院大生であってもなくてもです)同好の士がいて下さったならこれ以上、心強いことはないです。
つまり、短歌、もしくは詩・俳句等韻文が好きな方、作っている方、どうぞ当会へ! 特に新入生の皆さん、興味があるという方は来てみませんか? 語り合いませんか?
ラフな感じでいいです、会に関わらず交流というだけでも! いつでも歓迎します!

……と、詩作仲間が少ないので言ってみます。
こんなので大丈夫だろうか(あらゆる意味で)……
それでは、長きに渡りお目汚し失礼致しました。これで筆を置かせていただきます。




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不謹慎だとは自覚せども

この震災を通してその体験をどうにかして文章に表現してみたいと思わない人は、物書きとして、何か根本的な欠陥を抱えている気がする。
0RWv/f9Q | 平田東正 | URL | 2011.06.08(Wed) 02:08:25 | [EDIT] | top↑ |

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